ミュージカルでの放浪生活をはじめ、ク・ナウカを経て、川崎を拠点に演劇や琵琶奏者で活動をするAshさんにインタビュー。
Ash
ミュージカルの演者としてアメリカに渡り、世界80都市で舞台に立つ。その活動の中で、英語ではなく日本語で舞台を創り世界に持っていくという夢を抱き、帰国して東京芸術大学に入学。日本語の歌曲を洋楽にのせることの難しさに直面していた時、ク・ナウカ・シアターカンパニーの宮城聰氏(現・SPAC芸術総監督)と出会い、同劇団に入団。
2006年に川崎ファクトリーのレジデントアーティストとなり、県立高校での演劇講師を務め、地域に演劇文化を根付かせる活動をはじめる。地域の高校生を中心に「カワサキアリス」という劇団を作り、10年に渡り活動、その成果は利賀演劇人コンクールでの受賞につながった。
それらの経験を大切にしながら、現在はライフワークとして弾き続けている琵琶を舞台に取り入れ、過去から現在までの日本の物語を海外に伝えるという表現に力を入れている。
転勤のある家庭で育ったと話すAsh(アッシュ)さん。生まれたのは東京都内だが、その後転勤の関係で小学2年生くらいまで秋田県で過ごす。父の実家は関西だったので、宝塚歌劇団によく連れて行ってもらっていた。
高校時代は、埼玉県の女子高に進学し、学校の文化祭でミュージカル 『レ・ミゼラブル』を完全コピーで演じた経験もある。当時、日本国内で同作品の上演は少なく、 帝国劇場で出演する俳優たちも鑑賞に来ていたそうだ。高校時代からミュージカルが好きになっ ていく。
大学はSFC(慶應義塾大学・湘南藤沢キャンパス)に進んだ。当時はまだPCもメールも普及してなかった時代だったが、学生には一人1台PCが与えられて授業を受けた。はじめの授業では全員がホームページつくることから始まり、自分で学ぶ課題を発見していくというスタイルだったそうだ。大学時代には、アメリカへ渡り本場でのミュージカルに挑戦もした。Ashと呼ばれた始まりだった。
アメリカで所属していたカンパニーは人間形成も目的とし、世界中の都市を巡りながら、その地域の人と必ず交流するということもしていた。アメリカに限らずヨーロッパなどでも約80近い公演を続けて来たが、セリフは英語。いつのころか『なぜ自分は英語で芝居をしているんだろう』という疑問が湧いてきて、日本でつくったミュージカルを海外に持っていきたい、と思うようになる。旅先で日本人としてのアイデンティティーを問われた。そうした挫折感も味わったのち帰国する。その後、一度は就職するも東京藝大が演劇を学べるコースをつくることを知り、大学に入り直した。
ある時、大学に宮城聰さんが来た。宮城さんはク・ナウカ シアターカンパニーの代表で、演出家として活躍する人物だ。宮城さんの話に共感し、ク・ナウカの演出部に入り演出を学ばせてもらうことになった。ク・ナウカに惹かれたのは、日本語を音楽にのせることを舞台で表現していた点だったと話す。日常にあふれている音楽は、ロックやポップスなど欧米のリズムが多い。ク・ナウカの場合は、日本人に心地よいリズムに言葉がのっていて、海外公演を精力的に行っていることにも惹かれた。宮城さんの勧めで富山県利賀村で、演出家・鈴木忠志さんの行っている演劇塾に参加した。それまでの演劇の概念を根底からくつがえす衝撃的で面白い経験だったという。地域と密接な関係を築きながら活動をしていること、社会的なインパクトを持ちながら演劇を行っていることに驚いた。
しばらくはク・ナウカで活動を続けるが、宮城さんがSPAC静岡県舞台芸術センターの芸術総監督として静岡に拠点を移すタイミングで、Ashさんは高校生に演劇を教え始めていて、川崎に残って自分の力を試す道を選んだ。
それぞれの進路に進んだ後「やっぱり川崎で芝居がやりたい」と集ったかつての教え子たちとカワサキアリスという劇団をつくった。稽古場は設計事務所が提供してくれたファクトリーを拠点にしている。劇団名に“アリス”とつけたのは、ワンダーランドに突然引き込まれる、非現実世界に連れ去られるような体験ができる芝居を目指していることから名付けた。2017年には、利賀演劇人コンクールで優秀演出家賞を獲得した。
2018年12月、川崎市の主催で、JR川崎駅直結の大型商業施設「ラゾーナ川崎」にある小劇場プラザソルの開館12年を記念したプロデュース公演『カワサキ ロミオ&ジュリエット』で、紅(くれない)組、縹(はなだ)組の2バージョンのミュージカルを手がけた。『ロミオとジュリエット』は、言わずと知れたシェイクスピアの名作で、それを約200年後の川崎らしき街を舞台にした物語に脚色し、生演奏ありの音楽劇に仕立てた作品だった。公演ポスターやパンフレットなども地元川崎のクリエイターたちで作った。
2020年、コロナ禍となり、立ち止まって考えたくなった。語り伝えたいことが昇華されていないと思った。劇団としての活動ではなく、Ashさん自身がアーティストに戻り、できることを考えたいと思ったそうだ。自身がアーティストとして実現したいと思ったことを置きっぱなしにしてきた。芸大に通っていた頃に琵琶と出会い。大学卒業後に、琵琶を始めていた。物語を語って歌う。まさに一人でやる日本のミュージカルだと感じたという。ある時、大学の先生に、あなたがやっていること自体が歴史を作っていると言われ、琵琶という芸能の持つ「語り継ぐ」という行為の意味にはっと気付かされた。今もこれからも琵琶奏者としての活動を続けながら、宮城さんに学んだ世界も広げていきたいと語る。
アーティストとして、この時代に何ができるかを考えている。自分の身体と言葉を通じて、語り継いでいく使命があると思う。語り部JAPANというプロジェクトで、ダンス、語り、琵琶で舞台作品を創り、物語を語り継ぐ活動をしている。コロナ平癒を願って創作した「アマビエ音頭」も全国区に広げていけたらうれしい。この先もやっぱり、旅を続けて世界を歩き、語り継いでいきたい。
雪山(スノーボード)
・武蔵小杉と川崎の映えるスポット教えちゃいます |
・あなたの物語を舞台作品にします(脚本・演出) |
※チケットをお願いする時、『ソーシャルタウンガイド』を見たと連絡するとスムーズです。
※コンタクトはSNSのメッセンジャーから連絡をお願いします。
川崎ファクトリー(稽古場)
この場所がなければいまの自分はない、というくらい大切な場所
利賀村
鈴木忠志の芝居を見て衝撃をもらい、目を開かせてもらった、表現の厳しさ、世界に通じる表現はなにかを知った。ここで自分も演劇人になった。利賀村には開いたコミュニティがあり、いつも誰かが「お、Ash!いつきたの?」と声をかけてくれる。
・吉崎弘記(日進月歩)
※つながりは、紹介したキーパーソンとのつながり、または今後インタビュー予定の方です。
吉崎さんからの紹介でインタビュー。Ashさんとは私が川崎市内でグリーンドリンクス川崎を始めたくらいの時に出会い、私も以前は演劇をしていたので話が盛り上がった記憶があります。その後ラゾーナでのミュージカル公演のパンフレット制作にも関わらせていただいたり、パクチー料理屋で食事したり、いつも舞台の話ができるのが楽しみでもあります。(野田)
インタビュー・野田国広(編集部) グリーンドリンクス川崎のオーガナイザーをはじめ、かわさき新聞などのWEBメディア運営、シェアオフィスのコミュニティマネージャーなどを勤める。福岡市出身、川崎市在住。野田国広の記事一覧 |