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【川崎】三浦淳(川崎市産業振興財団)

川崎市の副市長として、誰よりも市民やコミュニティの中で共に活動してた三浦さん。溢れんばかりの川崎愛をたっぷり語っていただきました。

プロフィール

1952年川崎市生まれ、1975年横浜国立大学卒業し、川崎市役所に入所。行財政改革、総合計画策定等の役職を歴任し、2010年に副市長に就任、臨海部におけるライフサイエンス拠点の形成や武蔵小杉周辺地区再開発等、産業施策・まちづくり分野を幅広く担当。自治体間広域連携協定や多様な主体との協働・連携を通じたまちづくりを推進。20186月から川崎市産業振興財団の理事長。

川崎市役所人生43年

川崎で生まれ育ち、横浜国立大学を卒業後は商社に行くか、公務員になるか考えた末、川崎市役所、スタートは中原区役所の税務の窓口。それから43年間、行財政改革、総合計画策定等の役職を歴任。2010年からに副市長に就任すると臨海部のライフサイエンス拠点「キングスカイフロント」や武蔵小杉周辺地区再開発などを担当した。時には月に2度、川崎駅前でゴミ拾い活動をしているグリーンバード川崎駅チームに参加し、市民と一緒にゴミ拾いをしたり、武蔵小杉で毎月開催している「こすぎの大学」でも先生役として登壇したりと、市民活動やコミュニティにも近いところに三浦さんの笑顔はあった。

30代の頃、1年かけて川崎港の浮島から多摩川沿いを歩き、奥多摩、多摩川の源流の笠取山を越え、長野県の塩の道を北上し、日本海の糸魚川(新潟)まで歩いたことがあると言う。クルマは公害のイメージなどもあって免許は持たず、歩くことを優先したそうだ。また日本橋から東海道五十三次も京都の三条大橋まで、500Kmほどを制覇したこともあるそうだ。1日20〜30キロくらい歩き、帰りは新幹線で戻り、またその出発地から歩き始めての繰り返し。そのアクティブさに脱帽だ。自分の足で歩くことで、街や道の歴史を体感し自分の体に残すことができる。それがまちづくりの仕事でも生かされていると話す。

まちの歴史と文化を感じて

今年で68歳。まだまだ元気な三浦さん、川崎市の歴史や文化について語ってくれた。今から150年ほど前が明治維新、今の年齢になると150年前という時間がそんなに遠い話ではないと感じるという。川崎市役所の近くに旧東海道があり、川崎宿は東海道の中で最後にできた宿場町。150年くらい前には坂本龍馬や西郷隆盛らが、そこを歩いていたと思えば浪漫を感じる。それから大正期になり川崎に大きな工場が立ちはじめたが関東大震災があり、その翌年の1924年に川崎市は誕生している。当時の人口は5万人ほど。大震災が起きなければ1923年に出来るはずだったそうだ。そして工場の立地が進んだが、太平洋戦争で一面焼け野原、戦後の復興が始まり京浜工場地帯として大きく発展、人口も増加していく。

川崎市の人口は現在154万人を超え、京都市や神戸市の人口も抜いて全国6番の大都市となった。川崎市内で1年間に出生する赤ちゃんはざっと1万5000人ほど、亡くなる方が約10,000人。差し引き、毎年4から5千人ほどの自然増は日本一だそうだ。そして転入や転出も多くそれぞれ年間10万人ほど、長く、社会増が続いている。川崎市は多くの人達が全国から集まってきて、全国と繋がっている。川崎は、産業の発展そして人口の増加、日本でも有数の元気な街である。

川崎モデル、そして宮崎県など他地域との連携

日本は人口減少社会に突入し、地域活性化、持続的な地域社会づくりが大きな課題だ。川崎だけが元気でいいという事ではないと三浦さんは言う。

「川崎モデル」という言葉がある。川崎市と川崎市産業振興財団が地元金融機関などと、2005年から始めた施策で、地域産業活性化を目指し、大企業・研究機関が保有する開放特許等の知的財産を中小企業に紹介して、中小企業の製品開発や技術力の高度化、高付加価値化を支援する事業だ。この取り組みが成功し、全国の自治体でも広がりを見せている。川崎と全国の地域がそれぞれの特徴や強みを活かし相互に繋がり、それぞれの地域の強みを高めて連携しょうようという動きだ。

宮崎県と川崎市とで、2014年11月に連携協定を締結し、都市と地方の強みを活かしながら、まちづくりや産業、人づくりに取り組むことになった。宮崎県は森林や林業で日本を代表する県で、スギの生産量は日本一。川崎市では、市内の公共建築物の木質化・木造化などに関する取り組みで、宮崎県との連携している。川崎市も宮崎県も名前に「崎」の文字が含まれており、また時代の一歩「先」を行くという意味も込め、この連携プロジェクトを「崎・崎モデル」と名付けている。20年4月に開校した川崎市立小杉小学校では、校舎に国産材を取り入れ造られた。木には、子どもたちが落ち着き、アトピーにかかりにくい、そして不登校にもなりにくいといった効果も期待してるそうだ。

沖縄や山北町との連携

現在の川崎競馬場がある場所には、1915年に富士瓦斯紡績の工場が建てられてた。紡績は当時の先端産業である。北海道から沖縄まで全国から若い女工さんが働きにきたが、1923年の関東大震災で沖縄からきた多くの女工さんも亡くなったり被災したという。被災した沖縄の方たちを支援するため日本で初の沖縄県人会が発足し、川崎市川崎区と横浜市鶴見区は、国内最大規模の沖縄コミュニティに発展していったそうだ。

(写真・JR川崎駅東口広場にある沖縄とのつながりのシンボル「石敢當(いしがんとう)」)

こうした川崎と沖縄の縁から、様々な連携の取組がなされている。川崎のエンターテイメント拠点であるチネチッタでは、毎年、沖縄県外で開催される最大級の沖縄イベント、「はいさいフェスタ」が開催されている。また、沖縄県名護市で作られてるシークワーサーは、1日1トン、年間365トンのシークワーサーが、消費されずに廃棄されていた。そこで川崎市で障がい者就労支援事業所を運営しているダンウェイ株式会社はシークワーサーの販売を行うなど、障がい者の就労支援を組み合わせた事業を展開している。

(写真・尊敬する名護の島袋正敏さん、ここの泡盛のコレクションは世界一。)

神奈川県の西端に山北町という町があり、人口は1万人程度で、面積は川崎市の約1・5倍もある。町の約9割が森林で、川崎市の水の約半分を供給する重要な水源でもある。山北町で栽培してるお茶を摘む体験など市民間での交流も始まっている。こうして各地域のステークホルダーと協力して、産業や福祉に限らず、環境や教育などの社会課題を解決できるのは、異なる地域が互いの強みを活かして連携してこそ、持続可能な社会を築いていけるのではないかと語ってくれた。

これからどうしていきたい

30年前は日本は「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の時代だったが、世界での1人あたりの生産性の順位もダウン、人口も減少している。2060年には9,000万人を割ってしまい、経済的にも厳しくなる。地域の持続性が重要だ。地域社会をどう維持していくか。川崎だけが元気じゃいけない。地方と相互に連携し循環し合う川崎、地域が元気でいれて持続する日本の地域社会。そして世界と仲良く繋がっていくことを期待している。そうした手伝いを楽しみながらやっていきたい。

パッションポイント

人と人をつなぐ、様々な主体と中小企業・ベンチャーをつなぐこと

チケット(私のできること、得意なこと)

・川崎駅周辺の街を案内します

※チケットをお願いする時、『ソーシャルタウンガイド』を見たと連絡するとスムーズです。
※コンタクトはSNSのメッセンジャーから連絡をお願いします。

お気に入りの場所(ホーム)

川崎駅周辺
神奈川県川崎市川崎区・幸区

生田緑地
神奈川県川崎市多摩区枡形
小田急向ヶ丘遊園駅下車

キングスカイフロント(ライフサイエンスの国際戦略拠点)
神奈川県川崎市川崎区殿町3丁目25
京急大師線小島新田駅下車

お気に入りの場所(アウェイ)

神奈川県山北町
観光サイト

祈りの森、風
沖縄県名護市東江四丁目24番6号
公式サイト

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つながり

宮里美智留(蓬莱)

那須野純花 (green bird 武蔵小杉チーム)

※つながりは、紹介したキーパーソンとのつながり、または今後インタビュー予定の方です。

取材後記

私が知る限り市役所の方で一番市民の中にいた公務員ではないかと思うほど、地域に市民にコミュニティに入ってきてくれた三浦さん。初めての出会いはグリーンバード川崎駅チームの立ち上げ間もない頃で、まさか副市長とも知らず一緒にゴミ拾い活動してました。とても話しやすくて、膨大な知識量。インタビューの最中も止まらない川崎愛に溢れていました。今度一緒に川崎ツアー行きたいです。(野田)

インタビュー・野田国広(編集部)
グリーンドリンクス川崎のオーガナイザーをはじめ、かわさき新聞などのWEBメディア運営、シェアオフィスのコミュニティマネージャーなどを勤める。福岡市出身、川崎市在住。
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